人名って何ですか~?

こんにちは。本島スタンドのクルシマです。

本島の歴史を語るとき、必ず登場する「人名(にんみょう)」という単語。

分かっているようで分からない、知っているようで知らない「人名」について調べてみました。

人名の始まりは16世紀末、豊臣秀吉が天下統一を果たした折、秀吉に味方して戦い多大な功績を残した塩飽水軍の船方衆650人に対し塩飽領1250石を与えたことによります。

名(みょう)とは領地を意味し、皆さんよくご存知の「大名」は1万石以上の領主(武士)を言います。塩飽諸島では650人の船方が1250石の領地を共有し、その一人一人を人名と呼びました。領地そのものだけでなく「人」力というものに重きを置く呼び名に、人名たちの自負と誇りが感じられます。 時の権力者が与えた領地での 自治を許したことにより人名制度が生まれました。武士以外がそのような待遇を受けることは大変稀なことで、他の地域では見られません。 650の株主からなる株式会社が、地域のポテンシャルを生かした事業展開をしていた、というイメージでしょうか。人名数の内訳は、本島305、牛島37、広島78、手島66、与島40、櫃石島10、沙弥島9、瀬居島20、岩黒島3、高見島77、佐柳島7、と本島に半数近い人名が集中していたことが分かります。その政所となる勤番所が本島に置かれたのもうなずけます。

人名の船方たちは所領を与えられた代わりに軍役に従事する義務があり、戦いがあれば自らの船で参戦するほか、物資の輸送や奉行の送迎など、船を要する様々な名を受けたようです。塩飽の船が大阪堺の港に入港する際、他の船は100mの幅を開けて通すことを命じた織田信長の朱印状が残されており、海上交通において当時いかに影響を与えてた存在であったかがうかがわれます。豊臣秀吉の命により兵糧を運んだ際は、全国13カ所のうち塩飽水軍のみが台風を避けることなく突き進み予定通りに荷を送り届けたことは特筆すべき逸話です。今でも、瀬戸内を航行する船が台風などで計画的に運休する中、本島に航行する船がほとんど運休しないのは、塩飽水軍の心意気が脈々と引き継がれているせいだと感じるのは私だけでしょうか。また、関ケ原の合戦の際にはいち早く徳川家康の勝算を見極め、西軍の情報を東軍に流し東軍勝利に一役買ったともいわれています。勝利を収めた家康にいち早く馳せ参じ、塩飽の自治の継続を約束する朱印状を取り付けるなど世渡り上手な面も見られます。知恵と工夫で長きにわたり自治を続けた秘密をうかがい知ることができます。江戸時代中期には日本海をも輸送の活動の場とし、北前航路の確立にも大きく貢献しています。

人名制度は明治以降組織が解体しましたが、 その操船技術で軍艦の乗組員として、また船大工の技術を生かした宮大工としても、各地で各分野で腕を振るいました。

現在も本島の山林の一部を保有し親睦団体として形を残しているそうです。