【正覚院】
正覚院は島の人から「やまでらさん」と親しまれているが、正式には妙智山正覚院観音寺(みょうちざんしょうかくいんかんのんじ)といい、真言宗醍醐派に属しています。
聖武天皇(しょうむてんのう)勅願(ちょくがん:天皇による祈願)により神亀年間(じんきねんかん)(724~729)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が創建したと伝えられます。
近年まで塩飽真言宗寺院の大本山でもありました。本尊「木造聖観世音菩薩像(もくぞうしょうかんのんぼさつぞう)」は児島稗田から樒(しきみ)の大木から造られたが、現在の像は鎌倉初期の作で、33年ごとに開扉される秘仏となっており、99.3cmの坐像で国指定の重要文化財となっています。
延歴23年、弘法大師(こうぼうだいし)が入唐の途中、嵐のため本島に立ち寄られ、自然石に不動尊像を刻み、今も水不動として人々の信仰を集めています。またこの正覚院は理源大使・聖宝(りげんだいし・しょうぼう:16歳の時引法大師の実弟・真雅僧正の弟子となった真言宗の僧)の誕生の地でもあります。母の綾子姫は、九州に流された夫の後を追って大宰府に行く途中、本島に船を着けこの地で大師をご出産されました。大師は16歳で出家し、修行を重ねて京都醍醐寺を創立。小野流修験道(おのりゅうしゅげんどう)の始祖となりました。母の綾子姫の墓は正覚院への急坂の途中にあります。
正覚院の仁王門をくぐって右側に袴腰(はかまごし)の鐘楼(しょうろう)があるが、この鐘は寛永年間(1624~1626)に年寄宮本伝左衛門が亡父伝夫道意の供養のために寄進した鐘が損傷したため、延宝5(1677)年、回船の船持衆が海上安隠祈願のため新たに寄進したものです。鋳工は神光寺、極楽寺の鐘を鋳た堺の菊波出雲藤原家次であり、銘は高野山竜光院の宥算です。
客殿玄関の上にある彫刻は北山助四郎作といわれ、見事な彫物です。また奥の院にはくぐり不動(磨崖仏)もある。
文化財には「木造聖観音菩薩像」の他、線刻十一面観音鏡像、懸仏、梵鐘、大般若経600巻など多数が指定されています。