「朱印状」の意味

こんにちは。本島スタンドのクルシマです。

塩飽勤番所の所蔵品の中で目玉となるのは「塩飽文書」(丸亀市指定文化財)いわゆる「朱印状」でしょう。

朱印状とは、将軍や武将が領地を与えたり特別な権利を許可する際に朱印を押して発行した書状のことです。現在は印判を押すのに誰でも朱肉を使用しますが、江戸時代以前は、一般的には黑印を押すのが習わしで、朱印を使用できたのは将軍や武将のみでした。勤番所には、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、徳川秀忠の朱印状が展示されています。歴史上名高い武将の朱印がこれだけ揃っているのは大変珍しく、全国的にも類を見ないことです。

織田信長の朱印状は、塩飽の船が堺港に入港する際他国の船は七十五尋(ひろ)の間を開けて塩飽の船を通すこと、もしそれに違反した場合は処罰すること、と堺の代官に言い渡したものだと伝えられています。 一尋は約1.5m とのことですから100m以上も退いて塩飽水軍を通していたということになります。 異例な特権を持つ塩飽水軍とはいえ、支配上は 大坂町奉行所管轄であり、 罪人などの服役などは大坂町奉行所が預かっていたという形勢を鑑みると、いかに塩飽船方衆が信長の信頼を得、重要視されていたかが伺われます。

信長の朱印状には、信長の天下泰平を築くという意思を表す有名な印象「天下布武(てんかふぶ)」の朱印が押してあります。歴史好きな方は必見ですね。

豊臣秀吉の朱印状の中では、秀吉が天下統一を果たすまでの戦いの都度出兵し、兵士や兵糧の郵送に従事することで多大な功績を挙げた塩飽水軍に対して1590年塩飽領1250石を650名の船方衆に与える旨の朱印状が有名ですが、この朱印状に関しては、残念ながら記録のみで現存していません。後に徳川家康から同じ趣旨の朱印状を受けた際、引き替えたからだと言われています。

秀吉のものは、1586年九州の島津氏を征討に際し、讃岐の領主仙石権兵衛とその将兵派遣のための50人乗りの船十隻出すよう塩飽の年寄に命じたものもあります。

1600年徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍が美濃(岐阜県)の関が原で激突した、皆さんご存知の天下分け間の戦いの際、塩飽水軍は戦況をいち早く読み東軍について戦い、家康が勝利を収めると、年寄の宮本伝太夫、入江四郎左衛門の両名が戦塵消えやらぬ草津の本陣をどの諸大名よりも先に訪ね、戦勝の賀詞を述べ、引き続き塩飽領地の自治の継続を願い出て、後日大阪城で交付された朱印状が、前出の秀吉から引き継ぐ内容のものです。これによって、船方650人は塩飽1250石の領主となり、幕府の御用船方として引き続き活躍することになりました。

二代目将軍秀忠からも1630年に同様の趣旨の朱印状を受領していますが、以後は発行されることなく、明治時代まで人名領が継続しました。

上記のほか、秀吉が朝鮮に侵攻した際に船大工や船頭の徴用と荷物の輸送を命じた豊臣秀次の朱印状が三通残っています。これらの朱印状は三つ葉葵の家紋入りの文箱に収めたものを二重の箱に入れさらに石櫃に収めて保管されていました。

歴史背景を知ると「朱印状」はただの古い書状ではなく、皆さんを時間旅行へと誘う入口になり得ます。ぜひワクワクを味わって。